3月31日 金
午前中、引き継ぎなど最後の仕事をして、職場の人たち一人一人に、お世話になりました、と言って、昼過ぎに職場を去った。
内心、自分の選択が正しかったかどうかはわからない。これまでもわからなかったし、これからもわからないだろう。だから強引に自分の選択は自分で正解にしてゆくしかない。創作に関してもそうだ。自分は選考委員やコーディネーターへの批判から、芝不器男俳句新人賞の受賞を拒否した。自分はその出来事のあと、別世界、つまり、ズームで受賞辞退を宣言するのを踏みとどまり、受賞を受け入れた世界を想像した。どちらの世界もひどく空虚であった。一方には孤独があり、一方には拭いきれない恥があった。ならばせめて、今ある世界を正解にするようにやっていくしかない。

3月30日 木

疲れすぎているのか、夕方、惰眠をむさぼっていたら妙な夢を見た。
宮中のようなところで何かの説明を受けていた。「ここからは膝をついて進んでください」と役人のような者に言われた。そこで場面が切り替わる。
ゆっくりと歩いていた。隣には上皇陛下がおられた。自分は陛下のほうを向いて、「2年前、北海道に来てくださり、ありがとうございました」といった。陛下は「4年前ですね」と一言だけ仰せられた。自分は再び前を向いた。目の前には白く広い空間が広がっていた。そこで目が覚めた。
妙な夢だった。
2018年、北海道150年記念式典のとき、当時の天皇皇后両陛下をお見かけしたので、そういう記憶に関連した夢かと思う。

夢と言えば先日も変なものを見た。
猛スピードで走る山手線に乗っていた。走っているのになぜかドアが開いていた。ドアのところにキリストの格好をした男が、振り落とされまいと必死にしがみついていて、白い服が風を受けて激しくはためき、髪が逆立っていた。そういう夢である。

3月29日 水
働く。働きながら、自分は働き方が下手だと思う。自分を大切にするためには「断る」技術が必要だが、それを身に付けられないでいる。職場が変わっても毎回それで損をしている。もっと自分勝手になっていい。いろんなことを引き受けすぎてストレスの溜まっているときは、あれもこれもなんでもかんでも押し付けるな、こっちの事情も考えてくれと思うときもある。引き受ければ引き受けるほど損である。いくら言葉で感謝されても損である。いっそのこと、無能のフリでもしたらよいだろうかとすらおもう。時代が進んで細かい成果給の仕組みが普及すれば、こういう不満もなくなるかと思う。基本給を平等に定めて、さらにAIが仕事量を判断して自動で給与をプラスする仕組みがあればよいと思う。組織で働くのは嫌いではないが、自分の成果がそのまま自分に還ってくるような働き方を考えても良いかもしれない。

3月28日 火
キャンベルの『千の顔をもつ英雄』を読む。毎日忙しいが、神話や歴史を再度学び直したいと思う。

3月27日 月
土日も働き詰めであり、今日は午後から休みをとる。定期の通院をして帰宅して休息する。夜おきて、温泉にゆく。大浴場で若者たちが人生について語るのをじっくり耳をそばだてて聞いていた。帰りにラーメン屋による。映画「サマーフィルムにのって」を途中まで見る。同僚の知り合いが出演していた。

3月26日 日
ひたすら眠かった。惰性で働いた。明日の午前中は大事な研修があるため、日曜日というのに気が抜けない。

3月25日 土
非常に憂鬱な朝であったが、なんとか仕事へ。仕事終わりに本屋へ寄って俳句の総合誌を腹をたてながら読む。まったく価値のない馬鹿げた印刷物と思う。村のなかで同じような行事を延々とやっているような感じだ。堕落の連続にイライラしっぱなしで、逆に疲労しているはずなのに創作意欲が湧いてきて困った。例外として俳句死期死月号の精鋭16句」の青本柚紀作品と田村奏天作品だけは良かった。青本作品はすでに独特の領域に入っているし、田村作品は荒削りだが挑戦が見られて応援したくなった。
帰宅してホワイトホースを飲みながら北一輝が主人公の映画「戒厳令」を見た。単調な作品ではあるが三國連太郎の演技と音楽がよく画も陰影か美しかった。内容も単なる政治ドラマではなく、「戒厳令」という状態の人間への影響にまで言及されていた。全体に幻想的なところもあって、どことなく押井守の劇場版パト2とビューティフルドリーマーに通ずるところがあるような印象をもった。
劇中で将校が静止したような町を歩く場面があり、ビューティフルドリーマーのしのぶと風鈴のシーンに似ていた。
Twitterで鈴木牛後が堕落したような事を言っていたので喝をいれてやった。先日、戦前に弾圧された俳人について語っていたのがまだ気にくわない。現代でまた弾圧のようなものがあるとしたら自分が真っ先に対象となるだろうが、もしそうなればあそこで語っていた者ども全員見てみぬふりをするのが見え透いている。
誰も彼も空間を改善するという意識がなく辟易する。飼い慣らされた犬であることに満足する考えには次の世代のためという感覚がない。そんなろくでもない者共には愛想も尽きる。

3月24日 金
あっという間に3月が終わる。仕事でやることが重なり非常に疲労する。今週は土日も仕事があり、夜、次の日の朝の事を考えないで眠りたいと切に思う。安心して眠れるというのがない。長めの休みをとりたい。
限界まで働き、限界を迎えたのでカツ丼とホワイトホースを買って帰宅。暴飲暴食しつつサッカーを途中から見るが、こんな試合より自分のほうがエキサイティングなのでまったく盛り上がらない。疲労のため画面上の球を追いかけるのも面倒だった。

3月23日 木
妙に空がどんよりしていた。祝日が仕事でつぶれたこともあり、疲労が激しいので午後から休みを取る。普段通っている温泉銭湯ではなく、旅館の日帰り入浴に行った。旅館の周囲には濃い霧が出ていて視界に入るものはすべて白くぼやけていて、ふと地獄とはこういう空間かもしれないと思った。写真を何枚か撮ったあと旅館に入り入浴した。
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3月22日 水
有給消化し正午に退勤するはずが、仕事を頼まれ頼まれ夕方になってしまった。頼まれるのは嫌ではないが、プランを崩されると調子も狂ってくる。
帰宅し、磯部浅一『獄中日記』をよむ。
午後七時平然と家を出る。妻は何事も知らず帰宅の時刻を尋ねる。「今夜はおそい、先に休め」と簡短に云って別れる。自動車を飛ばして歩一へ急ぐ。大東京は何も知らぬ風に夜の幕につつまれてしまっている。
226前夜の回想である。「平然と」や「簡短に」というところに、かえって強烈な磯部の決意があらわれているように思う。世間の人間に対してあえて境界線を引いている感じである。

3月19日 日

疲労がたまって調子が出ず。激務続きで土曜日も出勤したため、バランスをとるために今日は疲労回復の日とした。寝ながら磯部浅一の『獄中日記』(中公文庫)を読む。以下、「行動記」より。
  いよいよ 強い 決心 を し て しまう と、 俺 は やる の だ 等、 他人 に 云え なく なる。 他人 に 決心 を 打ち明け て 見 たい 気 の する 時 は、 まだまだ 自己 の 決意 が 固く ない の だ。 この 場合 は 他人 に 話し て み て 他人 の 意見 を きき、 自分 の 決心 の 不足 分 を 補足 せ ね ば なら ぬ わけ だ。

磯部浅一. 獄中手記 (中公文庫) (pp.21-22). Chuokoron-shinsha,Inc.. Kindle 版. 
フィットネスバイクで少し運動をして、夕方寝て、22時に起きてG氏賞選評を書く。

3月18日 土

俳句に儲けさせてもらってる人は、そりゃ人間の意思よりも俳句の方を上位に置くだろう。「俳句に捨てられる」という奇妙な発言は、お金を与えてくださる俳句様を手放してはならないという精神から来ている。

黒田杏子の死に対する俳句関係者のコメントを読み、俳句とネポティズムの関係について考える。岡和田氏に北方領土とアイヌと文学に関する評論を紹介してもらう。読んでいて思ったことがあるので、近々書きたいと思う。

3月17日 金
激務が続く。粘るだけ粘るが非常に疲労する。明日は休日だが、残務を処理する必要がある。平日だがホワイトホースを買って飲む。キムチ鍋を作って食う。その後、読書する気力もなく、何も読まず寝る。

3月16日 木
休めばその分仕事が進まず、自分が困るだけだが、役場に書類を発行してもらいに行く必要があったのと、心身の疲労がかなりあったため、午前中から休みを取る。郊外の役場で手続きを済ませ、役場の近くにある、地元の食堂で昼食をとることとする。入ったことがない食堂で、ハズレではなかろうなと心配だった。自分とほぼ同時に、食堂の目の前にある農協の管理職らしき男が入店した。男が黙ってカウンターに座ると、食堂の大将が、どうぞ、と言ってすぐに定食を出した。ほとんど無言の無駄のないやりとりであった。自分は、この食堂はアタリかもしれないと思った。自分はとりあえずカツカレーを注文した。
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カツは厚く良い油でさっぱりと揚げられており、よく煮こまれたルーとほどよい硬さの米と共に胃におさまる。田舎の食堂とは思えぬ絶品であった。こういう田舎の食堂で、こういう良いものを出すという心意気を、その堕落のなさを自分はとても気に入った。大げさだが、日本で自分が守りたいものは、第一に温泉と温泉街だが、その次にはこういう食堂であるとまで思った。
満足して店を出て、今日は徹底的にリラックスしようと思い、車を走らせ、普段あまり行くことのない新しめの温泉に行った。露天風呂隅で大学生らしき若造が嘔吐していて不快だったほかは、気分良く満喫して帰宅した。

3月15日 水
やることが非常に多く疲労する。耐えられなくなり残業もほどほどに帰宅する。ホワイトホースを飲む。

3月14日 火

仕事を休みたかったが、去年の芝不器男俳句新人賞の時のように、辛すぎるときは逆に猛烈に働くのが良いと思い、勤務したが、頭が働かず、心も落ち着かなかった。夜、酒を大量に飲んだ。なにか吐き出しておきたく、「大江健三郎の死」 を書く。

3月13日 月
残業中に休憩のためスマホの電源を入れた。大江健三郎のニュースを見た。職場では普段無駄口をたたかないが、そのときは、「うわマジか……」と大きめの声でつぶやいた。それからは仕事にならなかった。茫然としたまま、なんとか車を運転して帰宅した。


3月12日 日

11日深夜、国後島住民に取材したドキュメンタリー映画「クナシリ」を観た。住民の生活は貧しく荒んでいる一方で、ロシア軍が住民に向けて学芸会の劇よりも劣るような愛国芝居をやっていた。街の風景も閑散としており、建物は古びていた。昔の道南の漁師町に少し似ており、妙になつかしさを感じた。かつてロシア系住民と日本人は共存し、子供たちは一緒に遊んでいたという。もし、いくさが無ければ今でもそうだったのではないかと思うが、そういう状況ならそういう状況で、プーチンがロシア系住民の保護を理由に進駐してくるだろうから、難しい土地である。そのうちプーチンが死に、住民も減り続ければ、維持が困難になるだろうが、よほど政治の転換がないかぎり、軍事的な拠点でもあるこの島をロシアが手放すとも思えない。
G氏賞執筆せねばならないが、土曜日も少し勤務したため、働きすぎでの疲労を取るために、一日を休息に費やすこととした。たまに起きて本を読む以外は一日のほとんどをベッドの上で過ごした。夜、体調もようやく戻ってきたため、近場の温泉銭湯へ行った。貸切状態で気分よく入浴することができた。月曜日以降も激戦になりそうだが、やるべきことをやりたい。

3月11日 土

震災を詠む俳人など心底くだらない存在であると思う自分は、あえてあの東日本大震災とは無関係であったと言いたい。自分は三菱東京UFJ銀行の札幌支店にいた。東京の大学に合格し、春からの都内での生活に備えて新しいカードを作る必要があったからである。
その時間、震度1くらいの揺れがあった。そのあと銀行の窓口の奥が少しざわついた。自分は淡々と手続きをし、カードを作成した。外に出て札幌駅の電光掲示板を見て、気になって近くのネットカフェに入り、情報収集をしてから帰宅した。父の誕生日であった。夜、家族で東北が焼野原になっている映像を見ながら、東京で借りる物件について議論して、議論の最後のほうは多少喧嘩になり、父がやや感情的になった。誕生日にこのように家族で揉めるのは何事か、というようなことを母がいった。家族もまた、震災とは無関係であった。
震災に関して、ただ一つ忘れられないことがある。3月下旬、学生マンションの食堂で、自分と同じく大学進学のため上京した福島出身の青年と知り合った。彼はこういう事を言った。「東京の人間はいつか、福島の人間に復讐される」

3月10日 金

多忙な時期にもかかわらず体調最悪となり非常に疲労しながら働く。途中職場を抜け出して薬を買いに行った。ドラッグストアで店員がやたら話しかけてくる。薬で馬鹿な事をする者が増えたからか、最近のドラッグストアはやたらうるさくなった。9時まで働いたあと帰宅したが、疲れすぎて酒すら飲めず、すぐ寝た。

3月9日 木

夏井いつきが、危険な方向に向かいつつある。
「俳句に捨てられる」ということ(http://itsuki.natsui-company.com/?eid=6738)。こんなものは、俳壇の権力者が自分にとって都合の悪い人物を排除するために持ち出した未熟な論理にすぎない。俳句についての向き合い方はあくまで個人の選択による。しかし夏井いつきは、「俳句に捨てられた」などと原因を無検討に個人に帰属化する。簡単に言えば、お前の俳句が評価されないのは、お前のせいである、という。このような発想はどこまでも夏井いつきのような俳壇の権力者に都合のいいものでしかない。そして、このような異常な空間をハンドリングできるのは「いつき組」の方々だけであるので、彼らがいかに夏井に対して批判精神を向けることができるかが、今後のカギになるだろう。

3月7日 火

北海道の俳句関係者が新興俳句を語る、心底薄っぺらいとある動画を見たことでストレスがたまっているからか、丁度テレビで流れた「丸くなるな、☆になれ」というサッポロビールのCMに対して、妙に腹が立った。丸くなるな☆になれと言いながら、結局サッポロビールの☆は、黒い丸の内側にある。☆になってもいいが丸の内側からは出るなということかと、この黒い丸こそは〈日本的なもの〉か、あるいは〈健全で美しく温かな日本の伝統文化〉かと、勝手に妄想し、勝手に腹が立った。

3月5日 日

昨日届いていた「心の花」3月号を読む。特集の「心の花歌語事典」は何号か前から続いているが、担当者の選が優れており、毎回面白く読んでいる。今月号では加古陽氏が、〈【安保闘争/樺美智子の死(1960年)】〉の歌として、佐々木幸綱の『群黎』から

あじさいの花の終りの紫の濡れびしょ濡れの見殺しの罪
を引いている。初めて知った歌だが、真に迫った歌であり、心に残る。見殺しというのは常に、全身が濡れて冷え冷えとしたような感じを伴うものである。

3月4日 土

良くないことだが、ウイスキーを飲みながらG氏賞などを進める。調子が出ずあまり進められなかった。酒はやはり良くないと思う。気軽に酒を買うのを防ぐためにも、酒を買ったらブログにレヴューを書くというルールを定めてはどうかと思った。

3月3日 金

映画「プリティ・ウーマン」を観る。単純な筋だが、自分は昔のアメリカのファッションや街の雰囲気が好きなので面白く観る。まだ人が人を信じていた時代、マッチングアプリなどなかった時代の恋愛映画というのは品があるように思う。品があるというのは金の問題ではない。運命に身をゆだねる覚悟であると思う。マッチングアプリはどこまでも、そのような覚悟からの逆行である。
日本政府は少子化対策を進めたいようだが、そもそも根本的に現在の日本は、大人同士が真に恋愛に打ち込めるような状況であるのだろうか。恋愛には金が要る、品も要る。そして夢を見られるような空間も要る。今の日本はそのすべてがあるように見えて、いや、実際にあるところにはあるのだが、そのどれもがいかにも「装置」といったかんじで強引でロマンがなく、グロテスクに存在しているように思う。


3月1日 水

昨晩、灯油代を気にしてストーブを消して寝たためやや体調を崩す。
ふと、職場にある備品の、いくつか破れたところが他とは違う太い糸で補修されている古いネット(網)が天井からぶら下がっているのを見て、こう思った。
ネットには結び目がある。結び目は個人である。結び目をつなぐ一本一本は関係であり時である。そう考えたときネット全体は歴史である。ネットの破れた部分を補う太い糸は時代の英雄であり天才であり、彼らは破れかけた時代を繋ぎ止めている。ネットがネットとしての役割を果たすには、彼らが欠かせない。英雄や天才とは個々の分断を繋ぎ止めることで、時代を繋ぎ止めるものである。