悪霊研究

分離派短詩作家髙鸞石のブログ

2020年03月

『式日』と『滸』

冠された「滸」という名の様に、それぞれの書き手の彼岸から編まれた言葉が流れ着く。或いはそれらが呼応しあう。今、私も水際に佇みながら沖を眺めている。今しがた、海市に屹立する純白の塔が沈みはじめたところだ。」『滸(1号)』安里琉太「創刊に寄せて」

 

私ごときの思いつくことはすでに誰かが思いついているであろうし、あくまでまとめる必要がありそうならばいつかまとめたいと思っているが、俳句作家の1タイプとして、自分自身がもっているあるイメージから、あるいは、あるイメージ自体において、句を立ち上げていく(もちろんすべての句がそれによって書かれているとは限らない。そういう句が所々で顔を出すということである)、そのような作家がいるのではないかと思う。そのようなイメージを柄谷行人の〈可能性の中心〉というワードを私なりにアレンジして〈中心としてのイメージ〉という言葉で私はとらえている。客観写生だの花鳥諷詠だのといった松山人の俳句憲法とは無関係に、また新傾向俳句的な実感だの心理だのとも別に、〈中心としてのイメージ〉を拠点とする書き方。そういう作家は以前からいたのか、最近存在しはじめたのかわからないが、げんに私がそのように書いているからしょうがない。

 

〈中心としてのイメージ〉は一つとは限らないし、一つしかない人間もすくないだろう。ほとんどは複数のイメージの集合体であると思う。私の場合は父方の祖父母が経営していた、薄暗い和室にゴミ屋敷のごとく大量の着物や置物が置かれている不気味な質屋や、自作のものを含む無数の工具や廃品を納めた―これもまた薄暗いのだが―母方の祖父の作業用の部屋といった、ヴンダーカンマーじみた空間と、曇った空と黒い海があり、蠅、海鳥の糞、そして魚の血の臭いに満ちた漁村のような空間。あるいは、幼いころから幾度となく通っている、様々な素材によってできた奇妙な彫刻が野山のあちこちに点在する地元の美術館の野外展示。それこそが私の〈中心としてのイメージ〉だと思うのだが、そういうものを自然と思い浮かべながら、そしてそういうところへ読者を連れてゆくためにペンを走らせる。もちろんそういうものにとらわれすぎてもいけないのだが・・・・・・

 

私は、安里琉太が『滸』に書いた「創刊に寄せて」という文章と第一句集『式日』を読み、彼に〈中心としてのイメージ〉があるとすれば、それは「創刊に寄せて」の文末において出現する〈私も水際に佇みながら沖を眺めている。今しがた、海市に屹立する純白の塔が沈みはじめたところだ。〉というイメージがそれではないかと思った。(〈私も水際に~〉以下は、じつは安里の『滸』という雑誌に対するイメージであるのだが、そうであると同時に、)これこそが安里の句の源泉ではないか、と。(私は「創刊に寄せて」の、冒頭に引用した部分読むまで彼がそういう作家だとは思わなかった。彼はそれこそ『式日』の栞に鑑賞を寄せている岸本尚毅のような退屈な〈俳句のセンセイ〉たちが満足しそうな表現を目指して措辞を凝りに凝ったものにするような、すでにある理想的な俳句、俳句らしい俳句に向けて機械的に言葉を引用したり操作して接近してゆくことにより多少の個性を獲得するタイプだと思っていたし、私は、彼については、そういうものを書いて楽しいのであれば一生やっていればよく、そのためには『銀化』や『群青』なんてのは確かにちょうどいい場所だと思っていたが、『式日』や『滸』を読み、そういう印象をやや訂正しなければならないのではないかと思った。)

 

あをぞらを冷えたまへがみがちらつく

(『滸』1号「郵政」より)

 「あをぞら」や「冷えたまへがみ」というから主体は外にいて風にさらされている。前髪が「ちらつく」というのは、何かを見ようとしているが前髪がその目を遮っているからである。この句は〈沖を眺める〉という行為と結びつく。

 

(以下の句はすべて『式日』より引用)

をみならの白き日傘の遠忌かな

樹が枯れてゐる真つ白な家の上

これらの句に描かれた複数の白い日傘、白い家は〈海市に屹立する純白の塔〉に類似している。

流れつくものに海市の組み上がる

における〈海市〉は純白の塔が屹立する神秘的な海市を想像させるし、

それぞれに淡き服着て春の海

も〈水際〉に立ち沖を眺める者たちの姿を想像させる。

ひとつの読み方として、これらの句の背景に〈私も水際に佇みながら沖を眺めている。今しがた、海市に屹立する純白の塔が沈みはじめたところだ。〉という安里の〈中心としてのイメージ〉を見出すことが可能だろう。もちろんそれは客観的、合理的、学術的な俳句の読み方ではないだろうが。


  以下は直接に〈私も水際に~〉のイメージとは結び付かない句(そういう句が多数である)の中からいくつか句選んでみたい。
蠟梅のまだ匂ひなき黄なりけり
金亀子飛ぶことごとく遺作の繪
葡萄枯る地の金色の荒々し
永き日が詩稿に尽きて蝶と貝
くわいじうはひぐれをたふれせんぷうき
薔薇濡れてゑてがみにゑのありあまる

 

 四句目がとくに良い。「蝶と貝」で終わるのが面白く、また、蝶と貝は色も形も動きも違うが、それらが平然と並べられているところが詩情を生み出している。「蝶」と「貝」が詩のなかに登場するオブジェであるのか、詩を書いている主体の目に映っているものなのか不明であり、詩を書くことと詩に書かれたことの間にこの蝶と貝が介在しているような感じがする。「詩稿に尽きて」もなかなか書けない措辞である。『式日』は全体的に措辞が小賢しいが、その小賢しさを突き抜けて一句として完成しているものもあり、五句目のような冒険もあり、意外と評価が難しい句集ではないかと思う。

 

 

・強制された〈風土〉について

句の鑑賞はここまでにして、ふたたび、『滸』の「創刊に寄せて」について、別の視点から取り上げるが、ここで安里は『滸』について「「沖縄の若手」として呼びかけられ、時に「沖縄」を暴力的に欲望されることがある書き手が、いくらか書きたいものを書きたいように書くことのできる場となるといい。」という。

ほとんど同様の問題意識が私にもある。安里の言うカッコつきの「沖縄」が、その土地に関する歴史や文化、風土への薄っぺらい認識のようなものを含むのであれば、そういうものが〈暴力的に欲望〉されるのは私の地元においてもそうである。私の地元のある俳句賞では、風土を描いた作品がそれだけで高い評価を与えられるということが平然と行われた。風土に対する忠誠が求められて、俳句自体が優れているかどうかは二次的な問題になるという、風土至上主義的状況が地方俳壇において是認されている。はっきりいって、愚かであるとしか思えない。創造性もなにもない〈風土〉依存、〈風土〉礼賛の駄句空間で惰眠を貪っているのが私の地元の俳人である。私はそのような空間に絶望し、地元の俳人との連帯を拒絶している。しかし安里や沖縄の若手は積極的な道を選んだ。自分たちの場を作るという道である。

安里はまた、このように言う。『滸』を「「沖縄」に問いを持つ人々が、それぞれの試みの許に編み出した言葉を記しておく、そのような場だと思っている」と。難しい挑戦だとおもうが、〈暴力的に欲望される〉ことに対する抵抗は、『滸』のような場を維持してゆくことでしか、なしえないだろう。この雑誌で沖縄の書き手が、驚くべきものを書きあげることを期待したい。



追記

愚人正機の記事「〈地方〉俳人の限界 あるいは キャベツの切断と牛の飼育がもたらす予期せぬ奇跡」より抜粋。


 

先日、ある本が私のもとに届いた。

北海道文学館俳句賞作品集、『架橋』である。

ここで注目したいのは、この賞の受賞作品よりも、この選評において、選考委員が語っていることである。私はそれを読み、まったくもって無能な〈地方〉俳人である選考委員どもに血だらけの牛の屍を投げつけてやりたくなった。

・・・中略・・・

 

俳人協会幹事、北海道俳句協会常任委員の辰巳奈優美は、〈大賞に推した『牛を飼ふ』は、酪農家として、寒い季節の牛たちの表情を愛情深く詠うとともに、北海道の風土を伝え、繊細かつ力強い作品に仕上がっていると感じた。〉と述べ、また、〈記念賞に推した『あをあらし』は北大寮時代の回想とも思われる。〉と述べる。

北海道新聞俳句賞選考委員の永野照子は〈全体には北海道の風土を詠う作品や。個性的な作品との出会いが印象に残った〉という。

他にも、「風土」への傾倒をにおわせるようなコメントを残している選考委員が数名いる。

全体的に、作品のこういうところが優れている、という以前に、いかに風土が反映されているか、北海道への忠誠があるかが評価されているようなきらいがある。

 

最も酷いのは、北海道俳句協会会長の源鬼彦で、〈北海道の文化や歴史などを含む風土を礎としていると思われる応募作品に注目して選考した。そういう作句姿勢がこのところ希薄になってきていると憂いてもいるからである。いわゆる東京を中心とした全国区的な俳句には、その地域の顔が無いと断言できるからである。〉と述べる。あまりにも狭隘な俳句観である。これはもはや風土至上主義であり、〈地方〉俳人の究極の姿ではないか。

 

憂うのは勝手だが、作品の〈礎〉に風土を求めるのであれば、開催要領にも募集チラシにもその旨を(せめてキャッチコピーみたいなものでも)記載しておくべきだが、そこには「風土」の風の字も書いていない。風土を意識せず、それでも自己の才能をかけて作品を送った応募者も少なくないはずだが、そういう存在を軽視する源鬼彦のこのような態度には疑問を抱かざるをえない。

 

北海道の風土が描かれているとして、それはテレビドラマなどで描かれ消費されるものとしての風土と、また、東北などの風土と、何が違うのか、都市としての札幌を詠んだ場合はどうなるのか、タイトルに地名が入っていれば満足なのか、それらについて、どう区別をつけてゆくのか。拠り所とするのは「実感」だけなのか。それを示すことなく、源のように風土を安易に賛美する典型的〈地方〉俳人の浅はかさには呆れてものが言えない。しかもそのような人物が北海道俳句協会会長を務めていることに、私は、北海道の俳句の可能性について、落胆するところがある。源のような態度は、北海道の俳句から、風土詠を引き算したら何も残らない、というような状況、また、風土詠以外は読むべきものがない、という認識を生み出しかねない。「風土」を錦の御旗として、他を圧し潰す権利は、誰にもないはずだ。

 

獄舎と読者

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 〈私はもう評論を書くのを止めようと思っていたのだ。俳人だから、句だけを書けば良いと思っていた。だが、令和元年の師走に、髙田獄舎の句群を発見した時、一年半振りに、論じたい思いを抑えられなかった。「瘴気の子」論は三時間で草稿を書いた。完成稿まで三日掛からなかった。それくらい昂った。〉竹岡一郎「髙田獄舎レクイエム」


 佐藤文香や西村麒麟など、その俳人と自分との人間関係を通してその俳人の句を消費するような若手が多くてうんざりするなか、去年急逝した髙田獄舎の連作について、竹岡一郎が2020年3月8日の週刊俳句672号に「髙田獄舎レクイエム」を寄稿したのは、それらの有象無象とは一線を画する。


 「髙田獄舎レクイエム」のおどろきは、佐藤文香や関悦史について語ってきた竹岡一郎という書き手が、なぜか無名無冠の、しかも佐藤や関を批判してきた若手の句について熱のこもった長文を書いたという不思議さと、この記事で語られている句はほぼネット上やネットプリントに掲載された作品であるというところにある。

 普通はそうはいかないだろう。若手の句を取り上げるにしても、それなりの賞を獲得して、『天の川銀河発電所』に入集するなどして注目されていて、出版社や協会、結社から愛されていて、句集も出版しているような人間の句について語るだろうし、そういった俳句界の「いま」がわかりやすく反映されたような文章でなければそもそも誰にも読んでもらえないだろう。

 ところが、竹岡が書いたのは結局俳句の賞に無縁のまま、しかも一冊の句集も出さないままあの世に旅立った無名無冠の髙田の句についてであった。しかも句の出典のほとんどが書籍ではなく、プリント、というよりネット上にあるPDFのデータである。正気とは思えないが、実際に竹岡がそういうものを書いた。そんなもの書いても黙殺されるだろうに、そういうものを書いたのである。我武者羅だと思う。しかし書かれた髙田も地方俳壇や『俳句年鑑』のような場所から黙殺されながら書き続けた我武者羅であった。我武者羅な俳句の書き手には我武者羅な論客がつくということなのかもしれない。


 今思えば、菅原慎矢や八鍬爽風、田中泥炭、福田若之など、竹岡以前に髙田の句について語った俳人は数人いた。彼は、知名度さえあれば句の出来不出来に関わらず持ち上げてくれる「信者」やお互いを褒め合って上に引っ張り上げるための天の川島宇宙的「お友達」に無縁だったが、竹岡のような「読者」には案外恵まれていたのではないかと思う。その部分は、最後まで惨めだった髙田の俳句人生で唯一、幸福であったところではないだろうか。

 しかし、今は亡き髙田の句業を受け継いだ私としては、竹岡の鎮魂歌やこれまで書かれた句評に満足して油断することなく、むしろこれらを乗り越えることを目指さなければならない。書き続ける覚悟を与えてくれる「読者」に感謝しつつも、「読者」を突き放すように、追いつかれないように走りつづけたい。そして私は最後まで逃げ切るつもりである。いずれ書きあげる1300句の連作について、書けるものなら書いてみろと思う。書けたなら書けたで、その時は一緒に、お互いの我武者羅さについて爆笑しようではないか。 

 

追記

八鍬爽風のnote「機械仕掛けのピザまん」


 福田若之のウラハイ記事「〔ためしがき〕髙田獄舎と言葉の《変な‐文字‐T‐シャツ性》


 


第2回G氏賞 各句コメント・選評と結果発表 

第二回G氏賞について、応募作各句へのコメント・選評と結果を発表します。


〈コメント・選評〉(良いと思った句にはをつけています)

1番
笹岡大刀

どの句も地球規模の現象を描いている。そこに個性を見出すことができるが、全体的にやや説明調であるように感じた。オチが弱いとも思う。
プラズマと成るべく樹々の陽炎へる
「プラズマ」は良いし、「成るべく」というところも樹々に意志を発見していて良いが、折角そういう言葉を用いるなら高いテンションを保って後半でさらに面白いものを展開してほしい。「陽炎へる」がもったいない。
海嶺は大地の故郷大夕焼
中七が平凡である。
台風を乗り継ぎ伝書鳩帰宅

「帰宅」で落ち着くのはもったいない。
火の鳥と成りたし寒波続く夜は
「寒波続く夜は」で納得するけれども、こうやって無理して読者を納得させなくてよいと思う。
百万の注連縄神を驚かす
「百万の注連縄」は面白い。こういうのを奇抜とする人がいるかもしれないけれども、私はこういう過剰さを面白いと思う。が「神を驚かす」のあっけなさは耐えがたい。「百万の注連縄」がなにかつまらない物体に思えてしまう。
 
2番 石山正彦
奇妙な視点から奇妙なものを見て奇妙にそれを描いているから退屈はしない。ある程度描くものを定めてからはあとは自動記述的に言葉をつなげているように思う。「ひと」とか「ひらいた」とかのh音から始まる語が印象に残る。
手にさげてひとひとたちが池帰り
「手にさげて」がすまんが伝わらない。もしかして「手にさげてひと」で切れるのだろうか。そしてそういうことを私に考えさせてあなたは満足するのだろうか。
 がんめんを撫でても白く橋のうら
イメージは悪くなく、「がんめん」というひらがなの並びが愛らしい。この顔面は自分の顔面というより他人のそれであると受け取った。
 指をひらいたらすでに数えている
詩の一行目のような素早さと発見を評価したい。句集などでいきなりこれが飛び込んできたら驚かざるを得ない。
ひらいた窓をまたぐとき見える木
その「木」が何かを知りたい。
秋号の十ねんまえからするあくび
「する」が余計だと思う。しかし「十ねんまえからするあくび」の面白さはわかる。

3番 尾内以太

独自の世界観で透明な世界を描いている。
くびきりの痛みたとえば柿紅葉
「柿紅葉」では「くびきり」レベルの痛みが伝わらない。
ゆれのこる水は聴こえるさざんかと
「水」と「聴」もひらがなにしたら良いのではないか。
〇 手袋のうらに目があり見ひらかれ
真昼の白手袋を思い浮かべたい。それを何気なく裏返すと突然現れた目が「見ひらかれ」爛々としている。とても恐ろしい句ではあるが、佐藤文香の「君に目があり見開かれ」よりも面白い。佐藤の句よりもこちらが先にあった気すらしてくる。
〇 文字化けのはやさでしろながすくじら
面白い。「はやさ」というところにぎこちなさを感じないでもないが、また、佐藤鬼房の「白長須」の句の影響を見いださずにはいられないが、文字化けが目の前にぱっと現れる感じと鯨の存在感を結び付きは鬼房句とはまた違う怪物的な鯨の姿を描いている。
鍵盤は砂にうづまり鳥雲に
イメージは良いが、なにか踏み込みが足りないように思う。

4番 鬼月

衝撃的な句を読む作者だが、どこか甘さがある。
鬼女となりて通らば椿ふみ潰す
「鬼女となりて」というならば椿をふみ潰す以上のことをしていただきたい。
使えない子宮に春をよばないで
腹が立つ。「使えない子宮」と肉体を蔑んでおきながら、「よばないで」などと言っているところが気に入らない。
死んでいい肉にうまれて放生会
肉体を蔑むのであれば徹底していただきたい。「放生会」は入れ換え可能。
もろびとの病めるTOKYO降誕節
その病めるトウキョウ(この指摘にはなんの意味もない)とやらに何が現れているのかを具体的に描いていただきたい。
寝正月まだまだ死まで遠すぎる
「寝正月」の気楽さが悪い方に働いている。

5番 三島知浩
惰性で句を読んでいるように感じた。生活を詠むにしても、独自のものを強く見せてほしい。

建前に飽きて毛糸を編みにけり

「建前に飽きて」という説明に飽きた。「編みにけり」でさらに飽きた。全体を読み返し、さらに飽きた。
ツイートに三島由紀夫のある晦日
「ある」というのが引っ掛かるし、三島と晦日の組み合わせにはなんら面白味を感じない。
餅搗きやマネキン多き学生寮
上五さえなければ。「マネキン多き」が死んでいる。
寒厨や家賃は明日払ふ訳
貧しさは伝わってくるが。
雪合戦主将廉恥を棄てられぬ
何を読みたいのかは明らかだが、ストレートすぎてつまらない。「廉恥を棄てられぬ」からどうなのか、そこを見せてもらいたい。

6番 たなかいちろう
すべて都市の生活を詠んだ句だろうが、現代日本というより大正昭和あたりのモダンな雰囲気が漂っている。悪く言えば古くさいが、そういうこだわりは大事にしてほしい。生活を詠みたいなら生活を詠めばいいが、しかし丁寧にやっていただきたい。
牛飼ひが真昼の街区通りをり
この句を自信をもって押し出せるのだろうか。牛飼いの歩く音が聞こえない。
窮屈な寝床に戻る日の盛り
「窮屈な」がこの句を窮屈にしている。
ソーダ水善意すべてを弾きけり
この「善意」という言葉について、悩みに悩んで、それでもこれにした、という感じがしない。「けり」に腹が立つ。なににもケリはついちゃいない。なにか言った気になるな。
ピンヒール新快速を加速せり
描こうとしているものは伝わるが。もっと伝わりやすい表現がある気がする。「ピンヒール」と「新快速」の位置関係が気になる。
少しだけ騙されておく電気街
 これはまぁまぁ良いと思う。電気街の、妙なものがプラスチックの青い箱に入れられているような風景が見えなくもない。「騙されておく」という余裕、しかしそれあくまで「少しだけ」、というほどほどの緊張感がいかにも危険でも安全でもない日本の街をあるいている気分をそのまま表している。6番の作者の安直なところがかえって良い方向に働いたといえる。安直さも武器になりえるのだから俳句というのはお気楽だ。

7番 高村七子
 どの句も一応の形は整っており、そして強いドラマ性を打ち出している。だから印象は強烈であるが、よく読めばテレビ番組やコマーシャルをなぞったようなものを描いている。どの句も、季語の力で、三流脚本のト書きではなく俳句として、なんとか、「なぞったような」という程度で踏みとどまることができたという印象である。ただ俳句に込められたエネルギーは見捨てがたい。現実の複雑さを強引でもいいから一句にまとめる勇気を。
紅つばき嗚咽の響くバスルーム
季語に感謝せよと言いたい。
夏兆す少女のうちに死ねずして
この句も一見良い気がするが、これとて新海的なボーイミーツガールの感情という気がする。「夏兆す」という季語がさらにそれを確信させる。
曼珠沙華きみを埋めしはこのあたり
安易、の一言で済ませては作者に失礼だろうか。
孤独死の背に温かきホッカイロ
今度はドキュメンタリー調である。「温かき」は要らない。「孤独死の背」もなんとかならないか。「ホッカイロ」というのもこの句の価値を下げている。
〇 またいつか生まれておいで独楽回す
 輪廻転生じみた呼び掛けは誰が誰にむけたものであるのか明らかではないが、誰と特定する必要もないだろう。私は神々による、地球に生き地球に死ぬ人類への呼び掛けと思った。そう読めば「独楽回す」が活きてくる。地球と独楽のイメージが重なり「回す」という語がまた別の意味をもつ。

8番 中山奈々
8番はエネルギーというより勢いを感じる。一気に言ってしまうというところがあるけれど、それも単純なものではなく、溜めてから放つ、任天堂のゲーム「大乱闘スマッシュブラザーズ」のキャプテンファルコンの必殺技〈ファルコンパンチ〉のような句である。
〇 耳鳴りを一枚剥がす神の留守
「神の留守」をそこで使うかと驚かされるが、それでいて違和感がない。「一枚剥がす」は「耳鳴り」にモノとしての手触りを与えている。そしてこのような把握は個性的である。そこを評価したい。
珈琲が無くて吐気や一葉忌
これも悪くない。○を付けようか迷うところにあるくらいの句ではある。「珈琲」という表記にもこだわりが見える。ただ上五中七の勢いを「一葉忌」が受け止めきれているかどうか。
パルメザンチーズに冬を語らせて
面白いが、このファルコンパンチは空を切っている。「パルメザン」は必要だろうか。
綿虫を払ひし髪の痒さかな
これは単なる「弱パンチ」である。
〇 水仙はどつか遠くにやつてください地球が喫煙所なので
この作者の場合、こういう過剰さは良いと思った。「どつか」という表現、私は嫌で滅多に使わないが、この句の場合はこれが必要である。ユーモアだけでなく、地球の環境破壊への視線もうかがえる。が、そういう深読みはどうでもよいと思わせるほどの勢い。「ください」とか「なので」という妙な丁寧さもユーモアを加速させている。

9番 珠凪夕波

最後の二句のような社会と自己、あるいは社会と自然を描いていくやり方よりも、童話調に不思議なものを展開してゆくほうがこの作者の個性ではないかと思った。ただ童話調にしたってなにか工夫がほしい。
あじさいはないしよ話がとても好き

上五だけは良い。それ以下の童話調はたいして面白くない。
付録付き雑誌を買ひて林檎剥く

林檎が腐っている。また、わざわざ「付録付き」としたことの目的がわからない。
どんぐりの帽子ばかりが家にある

どんぐりの上の部分がいっぱい家にあるということだろうが、その不思議さはわかる。しかし「家にある」が単純すぎてもったいない。違う言い方で家にあることを表現できていればよい句になる気がする。
黙秘権行使銀杏目を瞑り

「黙秘権行使」がうるさい。「黙秘権」にしてもまだうるさい。「黙秘」でよいだろうと思う。「銀杏目を瞑り」の部分は普通。
敗荷や孤独死孤独死孤独死

孤独死程度でごたごた言うな。こういう句を作るとき、言葉を重ねるだけが方法じゃない。スペース(空白)や記号を用いたりして、感情の伝え方を工夫すればよいと思う。が、この句の押しつけがましさは嫌いではない。
 
10番 木村リュウジ

清潔な世界を独特のイメージで描く。
〇 自慰の香の指より白蛾生まれゆく

「精子」とかそういう言葉を用いていたらつまらなかったが、「自慰」の「香」としているからつまらない下品さに陥らずに済んでいて、むしろ清潔ですらあり、その時点で作者には一定の力量があることがわかった。「白蛾」が飛び立つのではなく「生まれゆく」ところも面白い。「指より」と指に注目させることによって蛾の軽やかさも伝わってくる。
〇 耳鳴りに金魚の過ぎる姉の葬

こういう句に私は弱いのであまり認めたくないが、それでも〇をつけざるをえなかった。耳鳴りと金魚という材料で強いイメージを与えつつ唐突な下五「姉の葬」によってそのイメージすら覆してゆく。。
ほたるがりふたりそろってひとぎらい

悪い句ではないと思うが、狙いが露骨すぎるというか、「ふたりそろって」という、終着点の「ひとぎらい」への準備の良さに興が削がれてしまった。
〇 舟という舟は壊れて百日紅

この作者の応募作のなかで最もよかった句。津波と関連付けて読もうか迷うが、地獄とも極楽とも明らかではなく、百日紅咲く鮮やかな空間に舟がいくつも壊れているという状況それだけで面白いと思う。長く咲き続ける百日紅ともう二度と使用されず腐っていくだけの舟の対比もよい。
〇 夏野ふとペーパーナイフ越しに兄

別荘のような場所を想像したい。手紙を開こうとしたときに兄が立っていた。手に持ったペーパーナイフが兄との距離感を表している。だから単なるナイフでも包丁でもなくこれでなければならない。「ふと」が良く、これが句に時間と生命を与えている。カインとアベル、または山幸彦と海幸彦の物語も句の遠景として見えてくる。

11番 花田心作

大胆なようにみえて堅実な作風。
〇 地の影の錯綜しだれざくらかな

「地の影」はしだれざくらの影と読んだ。「錯綜」というのは確かにそうだと思うし、俳句にするならその語を選ぶのが妥当であるが、ストレートすぎる気がする。もう少し遊んでよいのではないか。
落ちてゐる光のかけら木下闇

光の欠片を「落ちてゐる」というところは、光の欠片の存在を印象付けるので良い。良くないのは「木下闇」であり、上五中七の種明かしに堕している。
〇 箱河豚を飼ふ水槽も四角形

「箱河豚」と漢字にされるとハコフグが無機質なものに思えて楽しい。ハコフグも水槽も、さらに部屋も家まで四角形であるように錯覚してしまう。この作者は堅実な書き方をするのでそこが退屈でもあるが、こういう句は堅実な書き方のほうが、なんでもない事がほどよく異化されて面白い。ただそれを狙ったような句はつまらない。この句はおそらく狙って書いていない。呟くように飛び出たものだと思う。
殻ぬちに宇宙のありて寒卵

卵の中に宇宙を見出すことなど誰だってできる。
底冷は地下の魔王の息吹とも

伝えたいことはよくわかるし、面白いといえば面白いが「魔王」よりも面白い奴の息吹を発見してほしかったように思う。
  
12番 斎藤秀雄

世界をつくりあげるというより、世界を混乱させている。
翼うしなひ鰯は迷子ずつと迷子

「翼うしなひという事で逆に鰯の美しい翼を想像させるけれどもその後の「迷子ずつと迷子」という繰り返しが、翼を失ってもそれほど鰯の日常には大した影響がでなかったのだなという気にさせる。単純に言えば、この繰り返しが翼の価値を下げた。
姉妹羽化の気配虫籠のあはひ

評価するにあたって、悩ましく思った。「気配」がどうもしっくりこないのだが、「羽化の気配」という言葉だけを取り出せば面白いから困る。「姉妹」や「虫籠のあはひ」は抜群なのだが。なにかパズルのピースの欠けた部分に強引に別のピースを押し込んでいるという感じの一句である。
〇 骨のきおく岸暮れて海鼠うたふ

無脊椎の連中が合唱する岸の光景が単に美しいだけでなく、それを見ている者の骨─これは背骨だと思うが、いずれにせよ普通は決して直接触れることのできないもの─の「記憶」に焦点をあてることで、成長ということの不思議さ、悲しさかもしれないが、そういうものが滲み出ている。「海鼠うたふ」はやや奇抜だがこうでも言わなければこの世界は作り出せないのだから問題ない。実際この句の海鼠は良い歌を歌っている。
〇 島の夜明け古船の貝を鶴群れ食ふ

海と森と太陽があり、溢れんばかりに生き物がいる。生態系を凝縮させたような一句。「島の夜明け」と時間と空間を示してからその一部の詳細を描いているから、素材は多いが自然とイメージは伝わってきて押しつけがましさはない。「古船」という静止しつづけるしかない物体を取り上げたうえで「鶴群れ食ふ」と賑やかな光景に展開してゆくのが楽しい。よくできている句だと思うが、我儘を言えば、よくできているということこそが気になる。
〇 永遠の雨後のやうなり葱にほふ
 
雨後の湿気がいつまでもそこにあるように、水分を含んだネギが束になって香りを放ち存在感を露にする。そうではなくネギを切った瞬間を詠んだものと考えても面白い。「なり」というのがまた気持ちよい。

 


13番 にぼし

こういうものを発見した、という喜びと苦しみを作品から感じた。着眼点は良いから、より多くの詩的なものを発見し、俳句にしてほしい。
如月の液体のりの気泡かな

次の年度に向けて書類などを準備しているのだろうか。忙しさのなかでふと手元ののりの気泡のような些末なものが気になってしまう、そのような瞬間を詠んだものであると思った。
あざやかに蝶群れてゐる首塚碑

いちゃもんを付けさせてもらうと、下五の「首塚碑」がいかにも俳句のために用意しましたという感じがするうえに、「首塚」という語の印象を「碑」が打ち消してしまって句全体がぼんやりしている。形だけ見ればよくできた句ではあるのだが、そんなものはプレバトでくだらぬ俳句を書いている芸能人だってできること。
〇 実桜や銅像は陽を乞ふかたち

この作者の作品のなかでは最も良い句。桜桃と青銅の色の対比と、銅像を「陽を乞うかたち」と遠回しに表現したところがイメージをかきたたせてくれる。作者にはここまで作り込んでほしい。
恋人の亡くなりし日の水蜜桃

「水蜜桃」というところに甘えを感じて腹が立つ。
やはらかき手のつどひたる焚火かな

手のみに注目することで焚火に集う人の性質を暗示している。その手法はよいが、「やはらかき」というところに新鮮さがない。
 
14番 未補

上手な嘘と下手な嘘がある。
雲裂けて海月の傘の中の朝

「朝」が面白い。一方で「海月の傘」なんて表現はありきたりでつまらない。
〇 草刈りの朝から夜へそそぐ鐘

鐘の音に追い立てられるように草を刈っているうちに夜になる。朝になればまた草を刈る。たいしてうまい句ではないが、「草刈り」と「鐘」を合わせたところに新たなイメージの誕生を感じた。「朝から夜へ」という部分に冗長さを感じないわけではないが。
檸檬削ぐといくつも部屋のある男

詠もうとしているものは面白いからもう少し言葉を整理していただきたい。檸檬を削ぐのはグラスに入れて酒に香りをつけるためだろうか。「いくつも部屋のある」というのは何を象徴しているのかわからない。レモンの断面図のことかもしれないが、「削ぐ」だとレモンの表皮を削いだとしか思えないから、やはり謎である。
父の日や父だけを愛していたい

それは嘘だろう。
ふぐ鳴いてまひるの戸締まりはこわい

申し訳ないがこの句は評価が難しい。「まひるの戸締りはこわい」の幼児性と「ふぐ鳴いて」がどの程度響き合うか、考えても結論がでなかった。子どもの視点を活かした句とすれば、留守番の不安な感じも伝わってくる。一人、戸を閉ざした家に取り残されて、水槽の河豚が不気味に思えてくる、逃げたくても逃げ出せない、そういう状況を詠んだ句か。とても気になる句。
 
15番 櫻井天上火

無茶苦茶だがこの勢いはとても良い。こういう作風の人はなかなかいないので、頑張って書き続けてほしい。こういう句に対して「長すぎる」とか文句をいう有名俳人もいるかもしれないが、そんなものは無視すればよい。
〇 列島遡創造し〈今〉翼馬らがどこにでもいる

列島という言葉で表される日本という国はすでに滅んでいる。人はすべて昇天しており清潔になった瓦礫まみれの地上にはペガサスが溢れている。ペガサスにとっては再生するのは自然だけでよく文明まで創造する必要はない。列島が太古の姿に還ってゆく。私もよく知らないヴェイユのあれこれを抜きにしても「遡創造」という語はそれだけで十分伝わるものがあるから不思議だ
藝術論の出来をアウシュヴィッツの林檎が隔つ

表現は激しいが作者はどこまでも冷めている。「アウシュヴィッツの林檎」(真に深刻な歴史的現実)に対しては、生半可な芸術は中身のない卵のようなものでしかない。「芸術論の出来」というのも強烈な皮肉だ。
〇 光線消失火に向う老犬が非時の躍動へ帰る

何も考えないで作ったような、無茶苦茶で傲慢な句である。「非時」という語を調べると、僧が戒律によって食事を禁じられた時間を指すとに書いてあったが、それは採用しない。採用すべきは非―時、時間でも、反時間でもない非―時間。その空白のようなものに老犬が帰ると私は読んだ。「火」を災害のメタファーとすればそれに立ち向かうのが活力のない「老犬」のみであるというのは何とも惨い(まるで老いたシステムで危機に立ち向かうしかないどこかの国のようだ)。が、この老犬にとってはこの「火」こそが存在意義でもあるかのようにも思える。
非似の肖像にオイディプスの落日

オレンジの陽光が本人とは似ても似つかない肖像画にあたる。照らされた肖像画の人物は父殺しを祝福され本人よりも本人らしくその場にたたずむのだろう。この句を読んでそのように妄想した。
凍てる大河にタカダーヴィチ・ゴクシャノフの夜が昇る
手元の『ソビエト連邦将校人名事典』(四二書房)によれば、ロストフ郊外出身の軍人ゴクシャノフは、昼寝中のスターリンの顔面に嘔吐したことにより粛清の対象となったが、一九三六年、銃殺刑の三日前に突如狂死したという。実に哀れだが、二十一世紀の東の果てでこのように鎮魂されたのだからさぞ嬉しかろう。
 
16番 谷村行海

この作者の作品の根底には孤独だけでなく、孤独に向き合う力強さや陽気さもある。
独り身のラム酒に浸すパイナップル

この句にあきらかなように、孤独感と陽気さは対立するものではない。むしろそれらは調和する。
シャクシャインの霊魂を浴び麦青む

英雄の霊魂が土地の生命を活気づける。「麦青む」の清々しさがよく活きている。しかし霊魂が自然にどうこうするという発想は平凡。
首に鈴つけ父芒野をひた走る

こういうのを求めている。これは良い句かどうか別にして非凡である。異様であると同時に力強い。「父」は走らされているのか、自ら決意して走っているのか。どちらを読み取っても面白い。
〇 サブカルや野焼のあとの風強く

昔とても好きだったアニメや漫画のキャラクターに対して、今はまた違う感情を抱く。作品は年間数百本もつくられ、人は時と共に変化する。いつまでも同じものを愛してはいられない。この句では、「サブカル」は対象化され、それに対する心理的な距離感が俳句になっていると読んだ。「サブカル」は具体的には作者の昔みたアニメや漫画など、作者の人生に寄り添ってきた作品とそのキャラクターたちをまとめて「サブカル」として言っているのだと想像するが、その「サブカル」に対して作者は冷めているだけでなく、懐かしさのようなものも感じているのではないかと思う。「野焼きのあとの風」が作者をいまここに引き留めているのかもしれない。
「その」の指す解答二つ冬旱

国語の試験のときの句と思う。「解答二つ」はテストを作成した側のミスかもしれないが、自分自身の勉強不足の可能性もある。焦り。外では晴天が続いている。今すぐ教室を飛び出して外に出たい、という気持ちが伝わってくる。
 
17番 菊池洋勝

ありのまま、というのがこの作者の欠点であり、長所である。様々なものを詠んでいるけれども、特定のテーマに固執すると面白いかもしれない。
看護婦の出さない声や夏の朝

出せないのではなく「出さない」ということ、それから「夏の朝」がよい。病院の朝だろうが、夏の暑い日に看護婦が静かに働く様子を描いたものであろう。
弁当の箸の折れたる暑さかな

弁当の箸が折れるほどの負荷は何によるものか分からないが、それはわからないままでよいと思う。「暑さかな」を下五に持ってきたことが面白い
ノーブラの干せる台風一過かな

これはよくわからない。服が干してあるわけでもないだろう。
一家心中覚悟して母の風邪

「心中」でいい。「一家」が余計だと思う。「母の風邪」というのも、心中と組み合わせるにはつまらない。
蓮根掘る霞ケ浦の元レスラー

いまいち面白さが伝わらない。無駄なものが上から下まで並んでいるという感じがする。この作者はありのままを詠む素直さがあり、それが上手く働くことがあるけれども、この句はどうか。
 
18番 みってる
二句目と五句目のような軽快なものをもっと詠みたい。(三句目みたいなのもあるけれども、)本当はそういうものを書きたいと思っているのではないか。

むらさきの黒に沈める汁粉かな

だからなんだ
詩を書こう旅をしようよ師走だし

このJポップの歌詞のような軽快さは嫌いではない。「師走だし」に安心する。ここまで軽快だと、むしろこの句は一部の若手俳人にみられる軽快さを皮肉っているようにも思える。

〇 動かざるもの友として山路かな

同行二人ではないが、古い旅の在り方を思わせる堂々とした一句。「動かざるもの」は山河か、あるいは信念のようなものか。こういう句が出てくるあたり、前の句はやはり軽快さを装っていたのだろうか
ひだ重ね解けぬままの薄氷

いまさらこんなもんを書いてどうするのか。本気を出せ。
〇 白熊がストレッチする頃ですか

こういう作風は好きではないが、あえて肯定的に評価すると、「する頃ですか」と言いつつ読者からすればそれがどういう時間帯なのかよくわからない、そういう不思議さは嫌いではない。ありきたりな動物ではなく、「白熊」を選んだのは良い。句の世界が広がる。

 

19番 庄司直也

五句目のようなものをもっと読みたい。

〇 まつすぐに新聞奨学生の春

「まっすぐに」は新聞奨学生の自転車やバイクの軌跡であり、人生の道をまっすぐ歩んでいこうとする姿そのものでもあるだろう。
嫋やかに額一枚と向かう側

「側」ではつまらない
鎖されし部屋の肩書ほどの塵

「肩書ほどの塵」はつまらないのではなく良さがわかりづらい
九割の羽賑はひて柿揺るゝ

「九割の」は使いたい気持ちはわかるが、雑だからやめていただきたい。
〇 空風や機械に如かず身うらめし

強風に吹きつけられて寒さを感じつつ機械に劣る自分の肉体に気持ちが集中してゆく。「うらめし」と直接的な感情表現を用いたのはよい。機械は寒さを感じないだけでなく、「うらめし」という感情も持たないだろう。

 

20番 桃んがKT

切り取り方は良い。言葉選びの面でさらなる洗練を期待する。

〇 こすもす咲くこんがりと家を焼く

花と燃える家、もうそれだけで良い。「こんがりと」はやや興ざめ。そういうのを捨てて映像に徹してほしかった。
八重葎腰をゆるめて茂り愛し

「腰をゆるめて」では動作がいまいち伝わらない。

〇 みごもりの婚礼氷柱かりかりす

「みごもりの婚礼」はエンジェル婚というやつだろうか。氷柱は結婚式場の氷の彫刻の一部かもしれないし、式場の外にいる人間が暇つぶしに弄んでいるのかもしれない。なにか作者独自の孤独が映し出されている一句に思えて、〇を付けた。
難民にディープパープル寒の土

ディープパープルで検索したらミュージシャンが出てきた。それが関係あるのかないのか、難民の何が深い紫色であるのか、瞳の色のことか。音楽か何かを難民が聴いている様子なのか、いずれにせよこの句はつまらない。
風媒の種もつ掌にはサングラス

これもそうだが、何かを必死に伝えようとしているけれども、そしてその表面の部分は伝わるけれども、面白さが伝わらないのだ。
 
21番 あお

読む者の感情を揺さぶる表現の技術を獲得してほしい。自分の書いているものが本当に面白いものなのか突き詰めて考える厳しさも。
麗らかや傷数多なるリノリウム

こういう、形だけはきれいで、丁寧で、しかしなにも面白くなく、気分があるだけの句には腹が立つ。
夜明け方境際立つ夏の雲

「境際立つ」が説明的すぎて興が覚める。
空はいま被さってをり彼岸花

今一つだと思う。「いま」の使いどころがいかにも「凝ってるでしょ」という感じがして気に食わない。
膨らみしデイパックから師走かな

旅に出るというより、非常食を詰めているような気がする。次の年に備えて新しい非常食を詰めなおしたということかもしれない。それにしても、「から」を用いたところに腹が立つ。そういう小手先の技術はやめていただきたい。
新緑や河の真ん中に道あり

だからなんだこんな景色は近所にいくらでもある。
 
22番 水無月水有

暖色系の、色あざやかな句が多い。それが好みならそういう句を多く書いて22番なりの世界観を展開してほしく思う。
春浅し赤き包みのチョコレート

丁寧な句ではある。
成人式見覚えのある頬の傷

こういう陳腐なドラマはやめていただきたい。私はいまさらこういうものを面白いと感じない。
残雪に照り映ゆアンの赤毛かな

「映ゆ」には違和感。推敲を。
胎内の記憶しづかに聖夜過ぐ

胎内の記憶が蘇りつつ聖夜の時間が進んでゆく。よりにもよって聖夜に胎内を想うところが個性的である。「しづかに」が良いし、「記憶しづかに」で踏みとどまったところは22番の作者にしては偉い。それ以上言うとつまらなかった。

〇 おかもちにうどんひとすぢ秋彼岸

私の好みではないが、良い句と思う。秋の一筋のうどんからは切なさがひしひしと伝わってくる。うどん自体が九月の冷気をうけて冷え切っていると想像する。表記の点でいえば中七の最後の「ぢ」がなんともかわいらしく鎮座しているのも良い。上五中七をひらがなで通したところもユーモラスである。こういう、表面的なものを乗り越えてくる句を書いていただきたい。
 
23番 抹茶金魚

単に〈俳句的〉な光景を目にしたり思いついたから句にしたのではなく、どうしてもこれを表現しなければならないという熱意を感じた。

〇 くちぶえに鳥の文法なき暮春

感情が自然と口笛になって出てくる。しかしいくら上手く吹いてもそれは「鳥の文法」つまり鳥の鳴き声でも鳥のリズムでもない。人間はどうしたって鳥に近づくことはできないことを自覚しつつ春は終わろうとしている。人間の口笛に対するものとしての「鳥の文法」を意図的に見出す感覚から、詩をなそうとする作者の強い意志を感じる。
眼窩に挿してたのしむ指を人という

挿されたほうは死んでいるのか、生きているのか。これが遊びなのか、それとももっと激しいものなのか。分からないが、だからこそ不気味な一句である。下五「人という」部分など、大胆不敵な作品で評価が難しい。

〇 頁をもがれた鳥がまだ生きているまだ

頁は羽の一本一本(羽根)であり、それをもがれ肌を露出した惨めな鳥をじっと見つめる行為は前の句に描かれた眼窩に指を挿して楽しむ行為に近いものを感じる。「まだ生きているまだ」というところから、この句の鳥を見つめる主体は何かを待っているのだと想像するが、それは鳥が生き延びて飛んで逃げることなのかそれとも鳥の絶命なのか。どちらにせよそれは「たのしむ」行為であるように思う。「頁」という表現も、死に近づくにつれて鳥が意味を失っていく(羽も翼もない単なる肉塊になっていく)ことを思わせる。そう考えると、この句はひたすら冷徹である

〇 蔵書千冊すてて枯野のよみがえる

蔵書を千冊も捨てるという行為を、〈枯野を蘇らせる可能性のある行為〉として読み替える。「蔵書」なのだからこれまでの自分の興味や関心といったものの蓄積や過去が反映された書物も多いはず。しかしそれを捨てるのか。躊躇がない。夢は枯野をかけ廻るというが、書物廃棄の秘術は枯野そのものを復活させるとは。危険なフィクションであると、こういう句を見た「選考委員」のハイクのセンセイ方はい言うかもしれない。しかし俳句で危険なフィクションを展開してなぜ悪いのか。危険なフィクションを排して、この数十年「ハイクのセンセイ」たちはこの句程度に何かおもしろいものを書き残したか。
くちびるの渇きとともに焚火熾る

「くちびるの渇きとともに」ということで焚火の燃え盛る様子に自己の肉体のもつ時間を重ね合わせる。乾いた空間でなにも飲まず食わず焚火を見ているという気がする。焚火と自己が一体となり、焚火の有限が自己の有限となる。描かれた空間は静かなように思えるが焚火とそれを見つめる者の内部は激しく燃えている。その激しさが安っぽい新劇芝居ではないことはこれまでの四句が証明している。


24番 北口直敬

三句目は失敗しているけれども、三句目のような実験を24番は積極的にやってみるとよいと思う。

言いきかす唇たんぽぽの絮毛

親子を詠んだ句だろうか。「言いきかす唇」はいろいろ想像できて楽しい。「たんぽぽの絮毛」も繋がれてゆく生命を思わせる。
水色のハンカチを陽に透かしけり

「水色のハンカチ」が弱い。日常の一瞬を描いた句であるなら、その一瞬の鋭さに賭けてほしい。「水色のハンカチ」が24番の作者の目にどのように映ったかを見せてほしい。
ほうたるに涙をみせていたのです

安っぽい。
夏果の改札口をすれ違う

これも「夏果の」にやや頼ってしまっている。こう書かれれば読む側としてはいくらでもドラマを思いつくことはできるが。そのとき何を思ったのか、それをストレートに出さなくてもいいけれども、何か思ったのなら改札口は単なる改札口ではないはずだし、すれ違いも単なるそれではないはず。さらなる深みを見せてほしい。
セーターの胸に刺繍のハリネズミ

確かにかわいいけれども。
 

25番 しほのきさんじ

四句目五句目など、田中惣一郎の作風に近いものを感じる。しかし私としては二句目のようなものをもっと読んでみたい。
鳥交る人斥指を銜みつつ

申し訳ないが「人斥」か「人斥指」か「斥指」か、語の意味が調べても出てこないから読み取れなかった(中国語のサイトではいくつか出てきた)。造語の可能性もあるが、それを考えたところでそれほど面白い句とは思えなかった。
〇 で、お花畑を来る舟があるのだ

これは少し面白かった。「で、」からいきなり天国のような風景が唐突にスタートする。その舟にお前も乗れと誘われているような気持になった。今回の賞では全体的にこういう冒険作が少なかったように思う(他の賞と比べたら多いけれども)。作者を応援するつもりで○を付けさせてもらった。
木槿隔てて踟躕し躇跱し馬のきやうだい

手元の『漢字源』によれば「踟躕」は「ちちゅう」で一歩二歩前に進んでつっと止まること、行きつ止まりつすること、「躇跱」は見つからなかったが字面的に似たような意味だろう。馬の兄弟の動きをあえて「踟躕し躇跱し」として躍動的に表現した句であり、大陸の山水画を思わせるが、読解に手間をかけさせられたわりには面白くない。「きやうだい」の平仮名表記もくだらない。
火は太りなほ北風を欲るならし

さらに北風を求めているように火は大きくなってゆく。凝った書き方だがこの程度ならその凝り具合も悪くない。しかし描いているものは堅実であり、それは私からすれば陳腐である。
〇 創の目をとめどもなうて御元日

これは陳腐ではなく、読んでいて迫ってくるものがある。「創の目」は「きずのめ」と読んだ。25番の作者にしては凄まじい元日の句を書いたなと思った。「創」は銃創を思い浮かべた。そういうものに向き合っている状況で、それでいて「御元日」である。「御」元日というのがいかにも正月を自分とは関係のない世間の正月として突き放した感じがする
 
26番 ほけきよ

人生を謳歌している一句目二句目の作品が大好きである。G氏賞がもし一句を選ぶ賞ならば、どちらも受賞候補になっていたと思う。
〇 向日葵畑に俺が居るとこ見たいだろ

大笑いしてしまった。この句はとても気に入った。向日葵「畑」とまで書くあたり妙に真面目でそれも面白い。
〇 日焼の先輩嗚呼人生は素晴らしい

これも陳腐すぎて逆に面白い。
八月の老人海鮮丼を食う

前の二句の人生を笑い飛ばすような大胆さはどうした。
あの人は犬を蹴る人台風過

飼い犬をを蹴る人間は意外といるものだ。でも近所でそういう人を発見するとゾッとしてしまう。「台風過」もこの句では不穏な感じがして良い。
この街はたまに風船飛んでゆく

こういう句を読んだって面白くない。一句目と二句目のユーモアを徹底させ突き抜けた明るさの句を書くとよいと思う。
 
27番 坂本睡

力はある人なのだと思う。旧字体や「變電室」「人民」といった語を用いるところなど、こだわりが良い方にはたらいている。再度の応募を期待する。
〇 信号機赤になるまで孤獨かな

ずいぶん短い孤独だが、孤独とはそういうものかもしれないと思わせる一句。青になるまでではなく「赤」というのも工夫されている。赤だと信号を待ついろんな世代の人が周囲に集まってくるから孤独を失うというのもわかる。
〇 人民と呼ばれて牡丹まろきまま

「人民」というイデオロギー臭のする言葉が牡丹に投げかけられるが、牡丹は平然としている。作者はおそらくイデオロギー的なものについて皮肉を言うというより、そういう自然に由来しない語を用いて牡丹に別の角度から光をあて、牡丹を輝かさせることを狙っているのだと思う。
ゑひさめてしまひし死後の朧月

「ゑひ」は酒によるものではなく、何かに夢中になっている状態と考えたい。「死」は自分自身の死と読んだ。朧月の夜、ふと興が覚めてしまい、自分自身が死んだように感じる。悪くない句なのだが「死後」が引っかかる。「ゑひさめてしまひし」の情緒を消してしまっているように思う。
〇 淡月や變電室の男達

「變電室」という旧字体で表記されたモダンな一語で押し切った句だが、季語「淡月」が効いていて独特の雰囲気がある。
星はかなし永遠に生きるのは誰

切り捨てようかと思ったが、「星はかなし」という直接的な表現も悪くはないし、それ以下の部分の問いかけも良く読めば単純な感傷ではない。自分の身のはかなさを想うのではなく、永遠に生きる存在への興味とその存在への期待に身を任せている。永遠に生きるものと比べれば星は有限な物体にすぎないのだから「星はかなし」とそれを哀れんでいるのだ。


28番 雪ふる子

美しさをある程度犠牲にしてもリアリティをとる書き手だと思う。
 死に花に生き花供え盆の風

「盆の風」ということは外のはずだから、墓参りの景ではないかと思う。風通しの良い墓地で、おそらく銀色の花瓶に古い花が挿してある。そこで主体は「死に花」を捨て、花を新しいものと交換するかと思えばそうではなく、「供え」る。墓はいくつもの花で飾られ賑やかである。全体的に生き生きとした一句である。
燦々の懺悔が並ぶ柿斜面

「燦々の懺悔」は面白く、丁寧に作られた句だと思うが、わがままを言うと、「並ぶ」が少し気になってしまった。「柿斜面」という語があるから「並ぶ」があると光景がわかりすぎてしまう。またその「柿斜面」という語も、確かにこれで伝わるのだが、機械的で面白みに欠ける。「懺悔」として柿が並んでいる(ように見える)という気がしない。
紅葉ずるや言の葉ふっと浮き出でて

綺麗な紅葉をみて「言の葉ふっと浮き出で」る感覚は私からすればやや古めかしいが理解できる。和歌の上の句のようだと言えば怒られてしまうだろうか。万葉人の日記の一部のような一句といえばよいかもしれない。その「言の葉」がなんなのかを知りたいと思ったが、それを切り捨てて感覚の描写に舵を切ったのだと思うから問題としない。

少年の指に紅葉の光の手

「少年の指」に、「紅葉の光の手」つまり陽ざしを受けて照り輝く色づいた葉っぱ一枚が乗っかっていると読めばよいだろうか。しかし「少年の指」なのだから小さい指のはずで、その指の乗るくらいの葉を「手」と呼んでよいものか。
 秋草や子の髪を切る銀砂の音

「銀砂」は様々な意味があるが私は日中銀色に光って見える白い砂として読む。さらに「銀砂の音」というのだから、神社などに敷かれている、踏めば音を立てる砂利に近いものではないかと想像した。さてこの句だが、「秋草」が春夏秋冬の季節の廻りと共に成長を続ける子どもの姿を思わせ、「銀砂の音」が単にその音だけではなく、重く冷たい鋏をも思わせる。


 以上

 

良いと思った句にを付けて、選評を書き、またを付けなおし、受賞者を誰にするかということを考えたときに、まずこの辺りだろうなと思ったのが、四句に〇がついた10番、面白いイメージをいくつも見せてくれた12番と23番で、これらはすべて受賞に値するレベルに到達しており、一人を選ぶのは苦しい。

作家性という点ではこの三者すべてが満たしているのでそこではもう比較ができない。10番の作者は清潔な世界を展開しており、12番は逆に清潔な世界に存在するものを混沌へと導いている。23番は世界そのものを突き放した。また三者とも何を書くかだけでなく、どう書くかという点でも自分の詩を見つけようとしている。

こうなると作品の質を突き合わせてゆくしかない。あえてそれぞれ採れなかった句を取り出すと、10番はやや露骨だった三句目〈ほたるがりふたりそろってひとぎらい〉。「迷子ずつと迷子」がどうしても許せなかった12番の一句目〈翼うしなひ鰯は迷子ずつと迷子〉、「気配」が気になった二句目〈姉妹羽化の気配虫籠のあはひ〉。評価の難しい23番の二句目〈眼窩に挿してたのしむ指を人という〉、そして五句目〈くちびるの渇きとともに焚火熾る〉となる。だがこうならべても一長一短で結論はでない。

ここでG氏賞の目的を振り返りたい。「本当の意味で、俳句に意欲ある作家、才能ある作家を積極的に発掘するため、また、今後の俳句の一層の振興を図るための賞です。」私はそう宣言した。ところが、意欲、才能は10番12番23番すべてから感じた(もちろん他の数名からも)。三者はやはり皆、受賞に値する。それでも、この中から一人を選ばなければならない。

 

第二回G氏賞は23番にしたいと思う

余計な言葉はいらないだろう。この作者の作品から伝わってくる、詩をなそうとする激しさ、もがいているような感じ、それに賭けたいと思った。二句目〈眼窩に挿してたのしむ指を人という〉この句をどう評価すればよいか、やはりわからないが、それは私の限界ではないかと思う。この句を切り捨てるのではなく、この句をG氏賞受賞作の一句として世に問うことで開かれる俳句の可能性と、たんに「うまい」のではない、作者の作家としての可能性を重視したい。



 

 〈結果〉

 

第二回G氏賞  23番 抹茶金魚


    

         くちぶえに鳥の文法なき暮春


    眼窩に挿してたのしむ指を人という


    頁をもがれた鳥がまだ生きているまだ


    蔵書千冊すてて枯野のよみがえる


    くちびるの渇きとともに焚火熾る

 

 

 

〈おわりに〉

 

 まずすべての応募者に感謝したい。様々な個性が集まり読み応えがあった。それから、全句のコメントという無茶をしてしまい、時間の関係上コメントが十分なものではなく、もっと読めるだろうという部分や、それは違うだろうという部分がいくつもあるだろうが、それらに関しては無名俳人の未熟として笑い飛ばしていただきたい。いくつかの句について皮肉を言ったが、私ごときの発言なのだからそれほど気にはしないように。G氏賞は今後も継続するので、今回で懲りなければ是非次回も本気の作品を寄せてほしい。G氏賞は、何年も似たような作品を評価するような賞とは違い、常に変化するものでありたい。回を重ねるごとに、私も成長するし、皆さんも成長する。受賞作の作風も変わるだろう。これからも私は毎年一人を発掘し、その作家に期待する。
 
 第一回は田中泥炭が受賞したG氏賞だが、第二回は抹茶金魚が受賞となった。この2名のG氏賞受賞者がどのような存在になってゆくか、これからどのような句を書くかに注目しつづけたい。

 

今回のG氏賞の選考期間は、新型コロナウイルスが感染を拡大してゆく時期と重なっていた。ウイルスが国と国を、人と人とを分断し、世界は冷え切っている。時代を直視するにしても、そこから目を逸らして幸福な日常を夢想するにしても、こういう時こそ、情報を集め、生活を守りつつ、粘り強く、一人で、書き続けることが、重要な意味を持つ。俳句に世界を変える力はないが、俳句をもって世界と対向(対抗というほどのレベルではなく)することはできる。上手い作品は書かなくてもよろしい(私は書くが)。書き続けるその〈時間〉を世界と向き合うための力にする。そういう事が可能であると思う。

応募者のみなさん、これからも書き続けましょう。


                           2020年3月11日 髙鸞石

 

 

 

 

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プロフィール

髙 鸞石

分離派短詩作家
2012-2015年
早稲田大学俳句研究会に所属。
2015年
「海程」入会。
2018年
金子兜太の逝去に伴い「海程」退会。
2018年
「塔短歌会」入会。
2019年
「塔短歌会」退会。
2021年
竹柏会「心の花」入会。
同年、第5回群黎賞佐佐木定綱選者賞受賞。
2022年
選考委員の対馬康子氏、コーディネーターの筑紫磐井氏への抗議のため、第6回芝不器男俳句新人賞中村和弘奨励賞を辞退。

Twitter プロフィール
筆名は「高師直」「親鸞」「石川淳」からそれぞれ一字をとり、組み合わせました。 ブログ「悪霊研究」G氏賞と春殴会。俳句ではなく「短詩」。「俳句」は辞めた。
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作品掲載・発表等
2019
・俳句四季12月号「溶ける鯨」5句
・ネットプリント
「穢れた魂」18句
『誌』Vol.2「美と秩序」
2020
・詩客「殺戮の神」10句
・『俳句αあるふぁ』増刊号 遠藤若狭男の作家論と20句選
・We招待作品「壺乃牡蠣」15句
・ネットプリント
「痴霊記一」18句
「痴霊記二」18句
「痴霊記三」18句
「痴霊記四」18句
「東京虞輪」36句
「痴霊記五」18句
「痴霊記六」18句

2021
・『俳句αあるふぁ』2021年増刊号 忘れえぬ俳人たち 2020にて鍵和田秞子論と20句選
・『連衆』90号「加藤知子は何を書いてきたか」
・『We』掲載作品「白虎再起」10句
・ネットプリント
「時空糞一」18句
「時空糞二」18句
「時空糞三」18句
「時空糞四」18句

2022
「鉱物祭」 30首
「時空糞五」18句
「時空糞六」18句
「鹿縛り」 50句 
「琵琶法一」18句
「琵琶法二」18句
「琵琶法三」18句
2023
「琵琶法四」18句
「琵琶法五」18句
「琵琶法六」18句
「真経験一」18句
「真経験二」18句
「真経験三」18句
「真経験・天」(真経験一~三、54句)
「真経験四」18句
「真経験五」18句
「真経験六」18句
「真経験・地」(真経験四~六、54句)