※当初記載していました、「スタッフの不適切な発言(どなたかが私について「人格障害」と言ったことが確認されています)。」という部分につきましては、詳細について現在運営の方と確認を進めています。スタッフなのか、観客なのか、選考委員や司会者なのか、ズーム視聴者なのか、不明な中で、「スタッフ」として断定してしまったことにつきまして、心からお詫びします。
この問題に関する運営へのメール等も控えていただくよう私からお願いします。マイクの位置や対応者について情報提供があり、「スタッフ」の発言ではない可能性も十分ありうると判断できたからです。
また当日ズームで、そのような発言が一部であっても聞こえたという方がおりましたら、Twitterでもメールフォームでも、その旨私に連絡をしていだけるとありがたいです。(2022年5月23日)
2022年5月28日、賞運営より、当該発言は関悦史特別賞選考委員によるものであることが公表されました。
公式HP「第六回芝不器男俳句新人賞における不適切発言についてのお詫び」
なおこの公表以降、今回の件についての謝罪に関する運営からの連絡は一切ありません。
(2022年7月24日加筆)
選考会から一夜明けました。
もう中年にさしかかる歳であるというのに、まるで親に捨てられた子供のようにさんざん泣くだけ泣いたーそれは悔しさというよりも、これまでの自分の取り組みが何者かにまっしろにされてしまったような悲しさからでしたがー後、寝ようとしてもなかなか眠ることができないので、今、これを書いています。
単刀直入に言います。まず、私以外のすべての応募者と受賞者を祝福します。そして私は、中村和弘奨励賞を辞退します。
理由は以下の通りです。
・選考最終盤で、議論を尽くしたといえないうちに、進行役でありコーディネーターの筑紫磐井氏が挙手による多数決という手段を用いたこと。
・そこで中村氏以外の選考委員(全員ではない)が、言葉による明確な意思表示もなく123番に挙手したこと。
・私の作品と田中氏の作品で多数決をとる前に、筑紫磐井氏が明らかに選考委員に対して印象操作・誘導したこと。
・選考委員対馬康子氏が、私の応募作100句のうちの一句について批判するとき、おそらく意図的に私の作風やその句の文脈を無視したこと。そして、その一句の中の一語への批判が筑紫磐井氏の発言によって拡張され、多数決に影響したこと。
言いたいことは山ほどありますが、今一番、思っていることについて書きます。
私は、作品を書くときに、意識的に、これまで詠まれていないものを詠みこむことがしばしばあります。そこには下品な言葉も含まれます。なぜそういうことをするのか。それは、勇気をもって詩の言葉として、世間的に嫌悪されていたり、恥ずかしいような言葉、印象のよくない言葉を組み込むことー当然、差別的な意図などなくーが、私にとっては、言葉に新しい光をあてながら、作品として新しいものを目指していくというなかでの、重要な取り組みの一つであるからです(そしてそれは、俳句界から徹底的に嫌悪されている私だからこそ可能なことでしょう)。ラブレーや大江健三郎へのあこがれというのも少しありますが。
したがって、なんの責任や問題意識を持たずに、無意識にそういう言葉を使っているわけではないし、日常生活においても、例えば「ババア」など、最後に言ったのは何年前かわかりません。たぶん十数年前くらいでしょうか。仕事の場などでは、「ババア」どころか「ガキ」「ジジイ」なども絶対に使いません。それは、過去に「自爆」という語を含んだ句を書いた私が、今も昔もテロリストではない単なる小市民であることと同様に、当たり前のことです。句に含まれた言葉をきっかけとして、作者の人格をゆがめて理解することは、あってはならないことです。
もちろん、読む側にとっては、句にあらわれるそういう言葉の背景に、差別意識を読み取ることできなくはないと思います。下品な奴、差別主義者、作者である私がそのように思えてくるという人もいるかもしれません。
しかし、句の中の一語を取り上げ、ほかの部分を等閑視することは……すいません。選考委員の対馬康子先生。あなたは俳句を読んでいない。私の作品を読んでいない。私の意志を読んでいない。あなたは、何も読んでいない。あなたは、自分に向けられたわけでもない「ババア」という一語を読み、その語の一般的な印象を口にしたが、私の「ババア」という語を含んだ句それ自体の評価については、おそらくあなたは私的な感情から、意図的に口をつぐんだ。
それが本当に、俳人の態度といえますか?
新人賞の選考委員のあるべき姿といえるでしょうか?
すいません。普段のあなたは素晴らしい俳人であることは知っています。私のあこがれでもありました。そのうえで、言わせてもらいますが選考会のあなたの発言を聞いていた私の印象として、「ババア」に関する発言をしていたときのあなたは、俳人というよりクレーマーであり、たちの悪い検閲者ではないかと思いました。そしてなにより、あなたは「言葉」を差別する者であるということが、よくわかりました。「婆」と「ババア」、この2つの言葉の間には、少なくとも価値的な差はありません。
俳句の新人賞の応募者は、自分の作品を検閲者の目にさらすために、作品を書いているわけではありません。残念ながら、今の俳句賞の選考委員や選者には、すでにあなた以上の検閲官が何人もいます。検閲官がまた1人増えたこと、しかもそれが自分の信頼していた俳人であったということに、私は落胆するばかりです。
そして何より、私は、選考最終盤におけるあなたや、あなたの「語」の読みを拡張し、選考委員を誘導したコーディネーターである筑紫磐井氏の行為を、私の受賞を意図的に阻止した行為として、そして、私に対する何よりの侮辱であると受け取ります。選考を通じて私を推薦し続けて、最後の最後までそれを徹底しておられた中村先生には、本当に申し訳ありませんが、(Twitterにも書いたことですが)これだけの侮辱を受けておきながら、おとなしく賞を受け取るというのは、できません。私にだって、人としての誇りがあるのです。積み上げてきたものがあるのです。それを蔑ろにするような行為に対しては、たとえその行為が公権力や神仏によるものであっても、私は抗います。そういう生き方をしたいと思って、日ごろから一市民として日々を生きているんです。
今回、甘んじて賞を受けとるということは、私にとって書き手として、人としての死であると思います。
私が本当に望むのは、斎藤先生を交えたうえでの選考のやり直しですが、それは運営、選考委員や応募者・受賞者へのリスペクトに欠けたアイデアであり、不可能だとわかっています。せめて運営の方々には、今回の選考を何らかの形で可視化(録画の公開や、前回のように選考過程の記録の公開(もちろん、改ざんなどしていないもの)など)してほしいと思います。私も録音したデータは持っていますが、運営の皆様に期待して、とりあえずは公開しないことにします(もし録音データがほしい方がいれば個別に送ります)。
そして、運営やコーディネーター(筑紫磐井氏)や、対馬選考委員などからの謝罪を期待してはいますが、そういうまっとうなことができる人たちではないという諦めもあります。
だから、私は、次回の芝不器男新人賞では選考委員が一新されること、さもなくば、賞自体が廃止されることを、ひたすら望むことにします。
もうこのような惨めな思いをするのは、私だけでよいでしょう。
2022 5 22
よく晴れた日曜日の朝に
髙 鸞石
(2022年7月24日、「司会」を「コーディネーター」と修正し、筑紫氏の名前を加筆)
第14 回 九 州 現 代 俳 句 大 会 ご 案 内
招 待 選 者 関 悦史
髙 鸞石
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